| 2011年6月14日(火) |
| 今年二回目のグアム 2011年4月22日〜5月12日 |
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今回も関空から、コンチネンタルの午前11時フライト。夕方四時前には、自宅コンドの玄関前に到着した。
荷解きもそこそこに、マイクロネシアのペイレスへ、食料を仕入れに行く。サラダ用の野菜と、ハムと卵、パンに牛乳、果物。現金で支払う。
いつもはデビット・カードなのだが、出発前にトラブルがあったので再発行を頼んでいた。
私は半年に一度、MRIの脳検査を受ける。検査は数回受けているので、今回もMRIの機械に入った。ここで失敗だったのは、ジーンズのポケットに財布を入れたままだった。看護士から事前に注意を受けていたが、小銭やバックル付きのベルトは外しても、金属でない財布は油断していた。
結果、財布に入っていた数枚のクレジットカード、デビットカードの情報が、レントゲンで全て消えてしまった。
日本で発行されたカードは、再発行してもらったが、グアム発行のカードはすぐにとは行かない。
グアム到着後も数日は、現金で買い物をすることになった。
今回の東日本大震災で、ゴールデンウイークになっても、日本人観光客の数が極端に少ない。普通なら、ギャラリア前のホテルロードは、日本人がぞろぞろ歩いているはずだ。
グアムでも津波情報が出て、ローカルは車で高台に避難したそうだが、情報を気付かなかった旅行者は、ゆったりとショッピングをしていたらしい。ローカルの中には、津波見たさに、避難先から歩いてビーチに向かうものもいて、ヒルトン前の坂は混雑したようだ。
しかし、津波は数センチで、警報はすぐに解除された。
数日して銀行から電話があったので、デビットカードを受け取りに行く。PINナンバーを打ち込み、晴れて使用可能になる。
今回来島の目的の一つ、車検を受けに行く。グアムの車検は一年に一回。セーフティーインスペクションと呼ぶ。前回、ディーラーの営業ウーマンと行ったので、要領は判っていた。
場所は、GPO前の道路を横切ったタイヤショップが兼業している。検査場は裏口から、細い路地を入る。受付の女性が運転席に座り、台の上に車を誘導する。
前照灯のスイッチを入れ、点灯を確認、ミラーでバックライトと、ブレーキランプのチェック。これで検査終了。15ドル支払い、書類を貰い空港近くの陸運局へ走る。
窓口は例によって、長蛇の列。一時間ほど待つ。ここで87ドル支払い、小さなシールを貰う。このシールを後ろのナンバープレートに張っておけば、一年間は通用する。しかし安全かどうかは怪しいものだ。
グアムの警察も近年厳しくなって、飲酒運転、ネズミ捕り、車検忘れなど走行中のチェックが多いので要注意だ。
五月に入り、四年間借りてくれていたテナントが、退去することになった。海軍に所属していたテナントと初めて会った。部屋は奇麗に掃除してあり、セキュリティーデポジットは全額返還することにする。
セキュリティーデポジットは、テナントが部屋を傷めたときの保証金のようなもので、部屋が奇麗なら、差し引く必要もない。
さっそく次のテナントを見つけなければならない。
グアムの天候は、気温が日本の真夏よりきつかった。到着時からチリチリするような暑さで、妻も肌を焼き過ぎ、ヒルトンに開業した日本人医師の診療所で、診察してもらった。
火傷なので、抗生物質の軟膏を塗るのだが、医師が処方箋を書き、それを持って薬局に行く。場所はオカペイレスの通りの、メガドラッグ。軟膏が服に付かないように、パッドも一緒に購入する。
私はビーチへ行けば、イパオからニッコウホテルの麓のビーチまで、ポールを使ったノルディックウォーキングをするので、レンタル小屋のスタッフたちとも顔なじみになり、向こうから声を掛けてくる。
砂の上を一時間以上素足で歩くので、健康に良いが、肌の色はローカルと同じになるので、親しみが湧くらしい。
今回は悲しい出来事もあった。グアムに三十年以上住んでいた女性が、癌に侵され、日本に帰国することになった。行けば必ず食事を共にするグアムの仲間だったので、末期癌の姿を見るのは辛い。
帰国の日は、彼女の大勢の友達が空港ロビーに集まり、彼女を励ましていた。ネイビーに所属していた旦那さんは既に亡くなって、独り身だったが、日本から親族が迎えに来ていた。
グアムで永く暮らす女性の生涯は、それぞれ聞くも涙の物語だが、それに打ち勝ってきた強さには頭が下がる。
帰国してテレビを見ると、三週間前と、日本の政治に殆ど変化はなかった。グアムでは日本の番組は一切見ないが、日本の政治家が登場するのは皆無だ。唯一、酔っ払った外相が会議の途中、虚ろな顔を写されただけだった。
フクイチ(福島第一原発)の処理の不味さで、首相の顔は写されそうだが、間の抜けた顔を、グアムで見るのは、ちと辛いものがある。
数日経つと、グアムのリアルターから連絡が入った。空軍所属のテナントが決まったらしい。やれやれである。
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| 2011年2月21日(月) |
| 今年初めてのグアム 2011年 1月18日〜2月10日 |
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寒い日本を飛び立ち、一路グアムへ。入国審査で、チェックされる。渡航回数が多いので不審に思ったらしい。審査員が上司に電話で相談していたが、リタイアした観光客なら問題ないだろうと言って、放免してくれる。
いつものように、毎日ビーチへ繰り出す。しかし今年は天候が優れない。乾季だというのに曇りや雨が多かった。久しぶりに晴れたイパオビーチへ、朝から訪れる。
ウイークデイなので、数組しかいない。日本人らしい男性が釣竿を抱え、海へ入って釣りを始めた。歳のころ七十前後だろう。人気のないビーチから、投げ釣りをするローカルはいるが、海水浴客がいる海に入って釣るのは違反のはずだ。
イパオビーチの魚影は濃く、入れ食いになるはずなのに、なかなかヒットしない。
私はデッキチェアに寝そべり、沖のリーフを眺めていた。天候の荒れ模様が続いたのと、モンスーンの影響か、場所によっては潮の流れが速い。
突然、釣りをしていた老人が、大きな声を上げ始めた。砂浜から二十メートルも離れていない。大物が引っ掛かったのかと、見ていた。しかし様子が変だ。もがいている。私はとっさに立ち上がり、砂浜を駆け出した。近くで見ると、溺れているようだ。
海に入り、助けるべきか‥。しかし異変に気づいたライフセーバーが近くまで走ってきていた。彼は躊躇せず岸辺から飛び込み、老人に近づいた。手にしたブイを投げるが、老人は慌てているのか、掴めない。片手に釣竿を握ったままなのだ。
ライフセーバーが釣竿を取り上げ、ブイに掴まらせ、身体を安定させた。上体に腕を回し、ゆっくり戻り始めた。何かしきりに声を掛け、励ましている。さすが公営ビーチのライフセーバーだ。この若いチャモロ人は、良く訓練されている。砂浜にたどり着いた老人を寝かせ、水を飲んでいないかしきりに尋ねている。
老人は飲んでいないと、首を振っている。やがて砂の上に座りなおした。自分のやった軽率な行動を恥じているようだ。もう一人、スタッフが聞き取り調査のバインダーを持ってきた。
ライフセーバーが、年齢や名前、住所などを片言の日本語で聞いている。バインダーを持つスタッフが、それを書き込んでいた。
いつの間にか警官が現れた。事情を飲み込んだらしく、海中で投げ釣りをするのは違反だと注意していた。
パトカーのサイレンも鳴らさず、二人目の警官が現れ、少し離れて眺めている。このようなことに慣れているのか、作業に滞りがない。
ライフセーバーが、老人に向かって、ノーチャージだから、マシーンで体調を調べようかと言った。老人は激しく首を振って、拒否の姿勢をしている。しかし大型の消防車が公園に進入して来た。
停まると、数人の消防士が降りてきた。中には担架を抱えた者もいる。アメリカの消防士なので、911テロのときに見慣れた装束をしている。
溺れた老人は、余りの重大さに驚愕していたが、促されて立ち上がり芝生まで移動した。
血圧計で脈や血圧を調べられていた。数分後、異常がないことが判ったらしい。消防車は帰って行った。
ホテル前のビーチでは、これほど段取りが上手くいかないだろう。ほとんどがライフセーバーを置いていない。公営のイパオとマタパンビーチだけが、朝の八時から夕方六時まで常駐している。それでも年に何名かは、タモン湾の中で犠牲者が出る。ツーリストは注意が必要だ。
暫くして、溺れた老人の妻が、「お騒がせして申し訳ありませんでした」と、周囲に謝罪していた。自家用らしき車で、公園を後にしていたから、多分グアム在住の日本人だろう。
ある日、不動産の物件を見に行った。アカンタモール隣の、千坪ほどの物件だった。場所はホテルロードの中心部。ロケーションは言うこと無し。平屋のレストランと、コンクリート製の二階建て式場が建っている。どちらも空き家だ。
パーキングも広く、レストランはリニューアルして、回転寿司を始めたら成功するだろう。式場は色んな可能性がある。
売値は3.5ミリオンドル。今のレートなら、三億円を切っている。ここで、坪30万円なら安い。金はないが、欲しくなった。
しかし滞在中、レストランはテナントが決まったようだ。テナント料は毎月、九千ドル。もちろん地主になれば、テナント料は入ってくるので、借金で購入すれば、金利の助けにはなるだろう。
ここは諦めきれず、数回現場に通ったし、現地の銀行にもローンの話をした。しかし観光ビザで来島している人には、ローンは組んでくれないらしい。手に入れるには、日本で銀行から借り入れ購入するしか道はないようだ。
乗っている車のワイパーが痛んできたので、交換することにした。車の販売会社AKは、マリンドライブ沿いにある。久しぶり会った女性営業スタッフと、シェビーの修理工場へ行く。
受付でワイパーの交換と、シガレットヒューズの取替えを申し込む。修理スタッフが現れ車種を確認し、受付にワイパーの番丁を言った。受付は一組のワイパーを取り出して勧めた。
「安いか?」私は念のため尋ねた。15ドルだそうだ。了解すると、ガラス窓で仕切られた会計に、デビットカードで支払いを済ませた。
修理スタッフが、ワイパーを取替え、新しいヒューズもセットしてくれる。ここでも流れるように、作業が進む。さすが車社会だ。
Kマートへ行った。目的はウイスキーの購入。グアムはビールが安い。アサヒのスーパードライ350ml缶が、6本パックで6ドルを切る。
しかしウイスキーは高い。スコッチのJ&Bは、Kマートが一番安く、16ドル。ペイレスでは21ドル。残念なことに、アルコール棚にはなかった。聞いてもいつ入ってくるか判らないとの答え。
あやふやな答えと裏腹に、二日後に三本棚に並んでいた。迷わず三本とも頂く。ロスにもよく通った。ここは主に衣類のアウトレットだが、時間をかけると良い物を見つけることが出来る。
コツは、水曜から金曜日の間の午前中だ。その日も勘が当たった。冬のアウトドアには欠かせない、フード付きのスポーツハーフコート。分厚く軽い。170ドルが9ドル95セント。迷わずゲット。グアムのローカルには必要ないが、キャッシャーも不思議な顔で、間違いないか値札を確認していた。
この時期、グアムの景気は悪いが、海兵隊移転に伴う、インフラの工事は進み始めた。日本人のゴルフ客も盛況のようだ。いつもは予約が簡単なゴルフ場が取れず、格落ちのゴルフ場でも、250ドルで客が付くそうだ。
つくづく日本人無しに、ここの観光業は成り立たないだろう。しかし一番多いのが、三泊の旅行らしい。これではグアムの良さは判らない。せめて七泊はして欲しい。ショッピングはそこそこに、毎日ビーチへ行こう。そしてビーチでは何もしない。新しい何かが見つかるはずだ。
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| 2010年12月9日(木) |
| 今年六回目のグアム 2010年11月16日〜30日 |
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今年最後のグアム行きが終わって、結局90日間グアムに滞在したことになった。一年の四分の一をグアムで過ごしたことになる。
今回の目玉は、日本人会主催の秋祭り。今年は27日の土曜日に開催された。夕方五時ごろ寄ってみた。テント張りの出店が並び、寿司や果物、菓子、オモチャ、アルコールなど日本の祭りと変わらない。
但し大阪の祭りで漂ってくる、イカ焼きや、サザエのつぼ焼きの臭いは無い。
場所はイパオ公園。既に駐車場は満車で、隣のヒルトンへ車を止める。まだ早いせいか、会場を歩き回るのに、肩が触れ合うことも無い。中央のステージの周りには、ビニールシートを敷き、アトラクションを待つ、ローカルの家族グループが数組。
10ドルでチケットを購入する。このチケットで会場内の買い物が出来る。ミカンが六個で六ドル。ま、仕方ないか。
マグロの解体ショーが始まった。ハエが飛んでくるのを追っ払いながら、瞬く間に細切れになっていく。近くで握り寿司のパックを買う。六ドル。ビールは二ドル。ソフトドリンクは一ドル。
子供の神輿が賑やかに終わり、ダンスが始まった。会場が混み始めたので、退散することにした。ヒルトンからホテルロードまで、100mも無いのに、半時間以上掛かった。後で聞いた話だが、多い時は歩けないほどの人が来たらしい。四万人の入場者なら、甲子園球場が満員になったのと同じだ。想像できる。
滞在中は雨季も終わり、晴天に恵まれた。ヒリヒリするような太陽光で体が焼かれ、チャモロ人と同じ肌色になった。ビーチで休んでいると、日本人の中年カップルから、シャッターを押すように頼まれる。「ディス、プッシュ」と、デジカメのシャッターを指し示す。またローカルと間違えられたようだ。
頻繁に通うマタパンビーチは、フェイスタリゾートとホリデイリゾートの間にある。魚影は少ないが、イパオと並んで公営ビーチなので、ローカルが集まり、彼らを観察するのが面白い。
得に週末は、大掛かりなバーベキューパーティーが、数箇所で開催され、祭りみたいなものだ。彼らはとにかく良く喰う。各家庭で仕込んだ料理を、四角の大きな金属トレーに入れ持ち込んで来る。中身はスチームライスや、ケーキのようだ。
コンロで焼く肉は、トリや太いソーセージが多い。牛は骨付きの冷凍肉か。だから周辺はコンロ燃料のオイルと、焼肉の臭いがたちこめる。
25日は感謝祭だ。サンクスギビングデー。商店が一斉に休むと聞かされていたので、前日スーパーのペイレスで、食品を買い込んだ。老婆が、カートにターキーのブロックを五つほど乗せているのにびっくり。大きさは一つで、大振りのスイカほどある。子供や孫が帰ってくるのか、料理の大変さを想像する。
翌日はブラックフライデー。最初は意味が分からなかった。しかしKマートに行って理解できた。今日からクリスマスまで、年末大商戦に入ったのだ。店内は至る所で、安売りが始まっている。パナソニックの50インチプラズマテレビが550ドルほど。大勢がこの薄型テレビをカートに乗せているので、店内は歩きにくい。
つまり、商店はこの機に、一年分の売り上げを黒字にしようとしているのだ。黒字のブラック。確かに商店はあの手この手で買わそうと画策する。
私は現地の銀行に、カードを発行してもらっているのだが、精算時にKマートのキャッシャーが「キャッシュバックしますか」と聞いてきた。意味が分からなかったが、想像するに、30ドルの商品が、20ドルにディスカウントされていたとする。
つまり購入者は、10ドルの得をした事になる。その分を現金で返してくれるという意味らしい。買物をすれば一時的に、品物と現金を手にすることが出来るのだ。36本ひとケース、8ドルのソフトドリンクを買って、混雑する店を出た。
GPOのロスへも頻繁に顔を出した。今回は子供のドレスがたくさん出回っていたので、孫のため数着を購入する。店員が値札を安くして張り替えていた。しかし帰国する頃は、子供のドレスも売り切れ。ロスでは迷ったら即購入するのが後悔しない方法だ。
住んでいるコンドミニアムの向かいに、新しい和食レストランが出来たので行ってみることにした。
そのレストラン「ニンジャ」は、アッパータモンの、ステーキハウスの跡にオープンした。店内はサラダーバーに中華、和食、ロール寿司、ラーメン、その他食べ放題、飲み放題で16ドル。但しビールは一ドル。混む筈である。
ローカルに大人気で、ランチもディナーも時間どきには、路上にも車が溢れている。
ラーメンは麺を自分で茹で、出汁とトッピングを乗せる。珍しいのでやってみたが、出汁は醤油味で悪くない。
七時頃になると、ローカルの家族連れや、正装したカップルなどで混みだし、お客を観察していても楽しい。面白いのは、ラーメンは食べず、トッピングを他の料理の上に掛けていた。とにかく安く、大食いができるのが人気の秘密のようだ。
滞在中、北朝鮮が韓国を砲撃したのは知っていたが、タモン湾上空を飛ぶ軍用機は、普段よりずっと少なく、かえって不審に思ったのだが、米国は空母ジョージ・ワシントンの艦載機で、十分間に合うと踏んだのかもしれない。
中国との紛争になれば、基地が充実したグアムは、一番に狙われるだろう。血塗られた忌まわしい過去を持つこの島は、未来も決して安泰と言うわけには行かない。
そうならない為にも、日本も含め、米国政府の慎重な舵取りが望まれる。観光ビザが難しい中国とロシアに早期発行するのも、人種間の垣根を取り外す役目になると思うのだが。
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| 2010年10月6日(水) |
| 今年五回目のグアム 2010年9月8日〜9月24日 |
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台風シーズンだったが、猛暑の大阪を逃れグアムへ向かった。
今回はコンチネンタル航空。しかも午前11時の便だったので、比較的楽。午後3時半にグアム国際空港に着陸した。
入国審査場はかなり混んでいたが、一時間ほどでスルー。タクシー乗り場へ向かった。客待ちしていた初老の運転手が、嬉しそうに挨拶する。歩道の端で待っていると、かなり古い車が走ってきた。よく見ると、ペンキも剥げ、廃車にしてもおかしくない小型のセダン。
運転席には挨拶した先ほどの運転手。観察すると、こちらも引退してもいいような年配だ。乗り込むとドアの内側がべりっと剥がれ落ちる。仕方がない乗りかかった船だ、いや車だ。
自宅のコンドミニアムに着く。荷を解き、車のバッテリーケーブルを繋ぐと、一発でエンジンが掛かる。いいぞシェビー。マイクロネシアのペイレスへ向かう。食パンと牛乳、ジュース、ハム、卵、レタスなど明日の朝食に備え、食材を調達。
翌日は例のごとく、銀行で現金を下ろしロスへ。見るだけにしてカリフォルニアマートへ。本格的に食材を仕入れ、一旦戻り、冷蔵庫へ詰め込み、ビーチへ繰り出す。動物園横のマタパンビーチは、平日なので空いている。夏休みも終わったので、日本人もいない。チャモロのライフセーバーが、番小屋の二階から、戻ってきたのかと声を掛けてきた。挨拶を返し、デッキチェアに横になる。しばしグアムの空気を満喫する。
グアムに来て肉に飽き、どうしても食べたくなるのがウドンである。まさか本物の讃岐うどんが有るわけは無い。そこでハファ・ダイ・エクスチェンジへ行ってみた。マリンドライブ沿いの商業施設だが、近くにGPOが出来てから、寂れてしまい、昼でも独りで行くには気色が悪い。
そこにベトナム料理店があり、フォーならうどんの代わりになるかと思ったからだ。せっかくなので、地元の日本人オバちゃんたちも呼んだ。出席した五人がオーダーしたのは、フォーと生春巻き、揚げ春巻き。どれも量が凄くて、三人分ぐらいで丁度いいだろう。味はまあまあ。料金は安い。他の料理も食べてみたいので再度訪問しても良いだろう。
数日後、魚釣りに行った。日本からネットで申し込んでいたので一人60ドル。お客は我々夫婦を含め、四名。アプラハーバー内での魚釣りだ。スタッフは日本人二世の老船長と、チャモロの若い衆。船がポイントまで行くと、碇を下ろし、糸を垂れる。餌は細かく切ったアジ。
底釣りで釣果はなかったが、場所を変えると雑魚とサヨリが掛かった。辺りを見回すと、スキューバダイビングの初級コースの船が、お客を海へ入れる準備をしていた。
釣れたサヨリを船長が刺身にしてくれた。さっぱりして美味しい。三時間ほどで岸に戻る。車を置いていたウエスティンまでチャモロスタッフが送ってくれた。彼は釣ったサヨリと雑魚をビニールの袋に入れ差し出した。思いもかけていなかったので、チップを数ドル渡す。彼も思っていなかったのか、驚いた表情で受け取り何度もお辞儀をする。
帰宅途中、探検トレッキングを主宰する芳賀ケンさんの事務所に寄った。旧日本兵の遺骨探索も打ち合わせしたかったし、一度探検トレッキングに挑戦してみたかった。
探検トレッキングの日程を決めたのは良かったが、当日の早朝、とんでもないことが起こった。前日から体調がおかしかったが、猛烈な下痢に襲われた。とても歩ける状態ではない。仕方なくキャンセルし、次の機会をお願いした。
体調が回復し、探検トレッキングに参加した。当日、ケンさんも同行し、車中でホテルロードの街並みや、グアムの歴史を語ってくれる。やがて車はミニッツヒルを抜け、アサン展望ポイントに着く。ここで参加者六名が車から降り、ケンさんの話を聞く。
話は南太平洋戦争の日本軍全滅に及び、語り部としての役目を終わった。さすがハリウッドの俳優をしていただけあって、その語り口は、聞き手を感動させる。
その後、ケンさんと別れ、チャモロ人のガイドが運転する。車はジーゴへ向かい、15号線のとある場所に止まった。車を降りると、ジャングルの入り口に「パガットケーブ」と案内板が建っていた。歩き出すと、ジャングルは暫くの間平地だったが、傾斜のきつい細い道を下った。滑りやすく、空はほとんど見えないほど樹木が覆っている。
歩きながら帰路の厳しさが想像できる。ロープを使いながら傾斜を下り終わると、前方が開け、波の音が聞こえてくる。島の東側、太平洋側だ。どおりで波の音が大きい。
溶岩が固まったままの岩場を注意して歩き、絶壁の上に出た。水面まで凡そ15mはあろうか。暫くするとガイドのチャモロ人が、絶壁から身を躍らした。
荒波が彼を包み込む。波が寄せるなか、素早く抜き手で岸に這い上がった。下から希望者は飛び込めと、サインを送っている。参加者の若いカップルの、女性が騒ぎながら飛び込んだ。続いて、男性のほうも恐る恐る飛び込んだ。波が一段と大きくなり、男性はなかなか岸に辿り着けない。
ガイドが手を伸ばし、大波で近寄ってきた男性の腕を掴んだ。やっとの事で岸へ引き上げる。一歩間違えば事故に繋がりかねない。
他の参加者は顔を見合わせ、飛び込もうとしなかった。岸から離され、沖へ流されたら、サメの餌食になるのは目に見えていた。我々大人には、無謀に見える出来事だった。
昼食を摂り、帰路に着いた。しかしもう一つイベントが残っていた。ジャングルの中に祠が見えた、真っ暗で中は見えない。ガイドが、数本のロウソクに火をつけ、穴の中に消えた。再び現れたら、降りてこいと合図した。人がやっと通れる隙間を抜けると、足元が水に沈んだ。ロウソクの明かりで、前方が見えてきた。洞窟の中は30坪ほどの広さで、天井は鍾乳石が垂れていた。さらに進むと、水深は深くなり、身の丈を越す。火照った体に水は心地よく、ほのかに塩の味がする。ここで半時間ほど泳ぎ、洞窟を出た。いよいよ帰り道だ。
帰路の上り坂は、相当堪えた。平地に出ると、ガイドが耳を澄ませた。何か弾ける連続音が遠くでしていた。米軍の射撃訓練のようだ。いずれその日歩いた場所は、米軍に接収され、射撃場になるらしい。そうすれば一般人の立ち入りは禁止される。今が最後のチャンスだとケンさんは言っていた。
住んでいるピアマリンの一階で、閉鎖していたレストラン「コリドス」が再開した。旅の最後だったので、日本人オバちゃんたちを招待する。
以前のメニューは、バイキングの食べ放題だったが、今回はセットメニューになっていた。それでも料金は安く、品数も多い。韓国料理の味付けだが、天麩羅なども違和感はない。ここで食べるメリットは、飲酒運転をしなくて済むところだ。上階に住まいがあれば、酔っていても問題ない。
帰国はちょっと嬉しいことが有った。コンチネンタルだったが、ビジネス席に座らせてくれた。料理も三種類から選べ、ウエルカムドリンクも付く。何よりも座席が広く、疲れが少ない。
これからはコンチを利用し、せいぜいマイルを貯める事にしよう。
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| 2010年8月6日(金) |
| 今年四回目のグアム 2010年7月13日〜7月28日 |
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ビーチからの帰りに、小冊子「グアムライフ」を出版している、芳賀ケンさんの事務所に寄る。この方は、探検トレッキングも運営していて、前回は旧日本兵の遺骨探しも一緒にやった仲だ。
目的は、防衛省の天皇と呼ばれた守屋武昌(著)の、「普天間」交渉秘録、を手渡すことだった。内容は利権に群がる政治家と、地元有力者の暗闘を描いた実録物だが、当然実名が出ていて、小説より面白かった。
この手の政治家は、グアムや南方諸島で遺骨発掘にカネが出るとなると、いっちょカミする手合いだ。芳賀さんは両手を合わせ本を押し抱くようにして受け取る。
そのあと、「メリッソ村慰霊祭」に出席しないかと誘われる。翌日早朝、芳賀さんの事務所をスタッフと一緒に出て、豪雨の中、南へ向かう。
この慰霊祭の目的は、戦時中旧日本兵による地元民惨殺の慰霊だった。事件はメリッソとアガット村で起こったようで、二つの村が毎年交代で慰霊祭を行っている。今年はアガット村が当番になっていた。
午前九時ごろ、雨上がりの国道は、参列者の車で埋まっていた。日本総領事も来られていた。式典はミサで始まり、女性市長や来賓の挨拶、遺族の顕花に続き、日本人有志の花輪も続く。生存者の老人が当時の事を生々しく話す。
日本軍は緊急の作戦で、地元民に移動を迫ったが、はかどらず、見せしめに殺害したらしい。戦争の所為とはいえ、互いに不幸な事件だった。又こういう慰霊祭に、日本人が積極的に参加するようになったのは、芳賀さんの功績のようだ。
式が終わり、近くに場所を変え、簡単なランチパーティーが始まる。マンゴーなどの果物に、飲み物、軽食がテーブルに並べられている。参加した遺族、ローカル、合唱隊、日本人グループが一緒になって飲んで食べた。戦争の残酷さを身を持って体験する。
最初の土曜日、かねての打ち合わせどおり、ハガニアショッピングセンターのコーヒー店で、「スターシードガーデンズ」のジム夫妻に会う。
この農園ではノニを栽培していて、その生ジュースやカプセルを、日本へ輸入できないかと考えていた。カプセルはともかく、生ジュースは冷蔵運搬しなければならない。果たしてそんなことが可能かどうか、相談するのが目的だった。
農園はサンタリタの郊外にあり、別の場所にもノニを栽培していた。
保存料、添加物、他の果汁や水を一切加えていない生ジュースは、有効成分の塊で、薬事法によりその効能はおおっぴらに書けないが、南洋諸島では現地人が昔から飲んでいる健康飲料だ。
自宅の建つ農園には、グアムで育つあらゆる果物が植えられていた。中には見たこともない物が有り、市場に出ない果物もあるのを知った。
サンプル商品を二ダースほど購入し、農園を後にする。
ある日のこと、フィエスタ横のマタパンビーチからウエスティンの方へ歩いていた。もちろん水着に、サンダル、サングラス、熱射病予防にストローハットを被っていた。いつも込み合っているアウトリガー前のビーチに来た時、二人の女子大生と思われる女性が、英語で声を掛けてきた。写真を撮って欲しいらしい。OKと答え、カメラを受け取ろうとすると、一人が横に来て腕を絡ませた。残ったもう一人がカメラを構えている。
私の日焼けがローカル並みだったので、現地人と間違えたようだ。ここで身分を明かしても大人気ない。現地人を装い、カメラに収まる。
「アーユー ジャパニーズ ?」と突っ込む。すかさず「オー、イエス」と応えている。単純なものだ。そんなわけで、彼女達のデジカメには、私が現地人として残っている可能性が高い。
7月22日はグアム解放記念パレード。南から北へマリンドライブをパレードし、ハガニアのロータリーで終わる。
その日我々は早く出たつもりだったが、午前九時前には、既に道路封鎖がされて、車は迂回路へ回されている。警官の誘導を無視し、アガニァショッピングセンターの駐車場に車を止めた。ここも既に満車に近い。
車を降り、テクテクマリンドライブへ向かって歩き出した。ローカルの家族も結構同じ事をしている。二十分ほどでマリンドライブの歩道近くまで到着した。既に前日からの場所取りで、歩道はテントが張られ、フリの客が入り込む余裕は無い。仕方なく有料のテントは無いか探す。
妻がつかつかと、VIP席の隣のテントへ入っていった。ここはチャモロ関係者の席らしく、着飾ったチャモロ人が多く座っていた。チャモロでも特別招待された人たちだろう。妻は既に最前列まで行き、椅子に座って手招きしている。
私はここに座るには、手首に巻かれたテープがないと駄目だと小声で説明した。きょろきょろしていた妻がさっと席を立ち、すぐに戻ってきた。手には引きちぎれたテープが握られている。それを伸ばし、自分の手首に巻いてニヤッとした。抜け目の無い奴だ。
テントの端だったが、VIP席の隣だけあって、パレードは目の前で一旦停止し、パフォーマンスをやってくれる。もともと日本人が敵役のパレードだが、今では米軍の誇示と、チャモロ人のお祭りが趣旨だろう。
しかし良く考えれば、日本人から解放されても、再びアメリカ軍に占領されただけで、チャモロ人の復権がなったわけではない。パレードを見るのは午前中で切り上げ、ビーチへ行った。祭日なのでマタパンビーチはローカルの家族で混んでいた。ここで泳ぐほうが、よほど国際親善になりそうな気がした。
所持しているコンドミニアムの一戸から、テナントが撤退した。米海軍だったので、勤務地が移動になったらしい。ミリタリーの移動は、当たり前のことで、横須賀か米本土に勤務することになるのだろう。
テナントが出た後の部屋を掃除する。かなり片付けてあったが、残材の処分、窓や床のクリーニングで二日ほど掛かった。専属のリアルターが、すぐにテナント募集の広告を出したので、いずれ決まるだろう。しかし普天間移転の遅れは、色々なところに影響が出てくるものだ。
二度目の土曜日、グアム在住の日本人女性グループを呼んで、パーティーをする。今回は、常連さんの娘、ユリさんも加わり賑やか。ユリさんは米本土で暮らしていたが、母親の要望でグアムへ戻ってきた。プロのカメラマンを目指していて、素質も充分。
料理は、圧力鍋で炊いた鳥一羽と、ジャガイモや香草のごった煮、ヒラメの煮つけ、山芋とろろ、ばら寿司など。満足していただけたようだ。
翌日曜日は、午前10時にジーゴの、「南太平洋戦没者慰霊公苑」に集合した。
集まったのは、芳賀さん親子に、日本人学校の先生数名、ボランティアの学生、ボーイフレンド、我々夫婦など。線香とロウソクを灯し黙祷。その後マンギラオの慰霊塔に移動する。
すでにローカルのボランティアが、草刈機で作業中だった。さっそく袋に、刈り取った雑草を詰めたり、慰霊碑や付近の清掃を始める。太陽は容赦なく照りつけ、クラクラする。全員汗だく。途中から日本総領事、副総領事も加わり、総勢20名以上。三時間ほどの作業で、境内や慰霊碑も見違えるようになる。
ランチの後、希望者だけミニッツヒルの旧日本軍掩蔽壕を見学するため、アサンまで移動する。
丘の頂上付近で待機していると、地主が現れた。汚れた半ズボンに、よれよれのランニングシャツ。とてもこの一帯の大地主には見えない。彼の案内で、目の前のジャングルに入った。草木を掻き分け、崖を上り、やっと壕の入り口に到達した。未だ日本人は入ったことは無いらしい。人独りやっと入れる穴から侵入する。
懐中電灯に照らされた広場は二十畳ほど。ここに数十名の日本兵が隠れ、ビーチから攻めてくる米軍と激戦を交えた。芳賀さんが線香を灯し、参加者全員黙祷する。
少し離れたところに、もう一つ壕があった。急な斜面の入り口なので希望者だけ入っていったが、慎重に足場を見つけ、壕の壁をよじ登る。途中天井が破れ、危険な状態だ。交戦しながら敗走する日本兵の姿が目に浮かぶ。たった66年前のことだ。いや66年も経過したのか。
日本人の観光客に、この現実を感じてもらいたい。能天気なショッピングやビーチもいいけど、流れた血の代償は、余りに大きい。
帰りに汗と泥にまみれた体を、タモン湾の海水に浸しながら、敗走する日本兵には、これが出来なかったのだと思い、胸が熱くなる。
帰国する前日、日本人女性グループが、パーティーの返礼だと言って、ランチに招待してくれた。アカンタモールの隣にあるメキシカン料理。昼なのでランチバッフェだったが、ローカルにも人気が有るのか、すぐに満席になった。特別珍しい料理ではないが、ピリカラで午後の仕事がはかどるかもしれない。
帰国する日、芳賀さんの事務所へ挨拶に寄った。不在だったが15分ほどで戻ってきた。ちょうどスタッフの誕生日だったらしく、ハッピバースデイを歌いながら、芳賀さんと数名のスタッフがケーキを抱えていた。
私たち夫婦も、ケーキの相伴にあずかり、次回の旧日本兵遺骨発掘の約束をして、事務所を後にした。
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| 2010年6月9日(水) |
| 今年三回目のグアム 2010年5月11日〜5月25日 |
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マイレージが溜まり、今回は燃料サーチャージのみの追加料金で、グアムへ行くことができた。
例により、午前二時半ごろグアム空港に着いたが、GWを終わったというのに、入国審査場は満員だった。相変わらず、無国籍風アジア人の日本女性が多い。そんな連中のせいか、審査官の作業も長く掛かる。一時間以上経って、放免された。
コンドミニアムで三時間ほど仮眠し、銀行へ行く。入り口のATMで現金を下ろし、向かいのカリフォルニアマートで、食品の買出し。ついでにロスに寄り、商品のチェック。しかし火曜日が55歳以上のシニアサービスデーなので、数日買物は延ばすことになる。10%引きは大きい。
今回のイベントの一つ、サンセットクルージングが金曜に決まっていた。現地の日本人女性たちが、誘ってくれたのだが、遊覧船「マイクロネシアン・ドリーム号」が営業を止めるらしい。
当日、早めに港へ行った。案内してくれたのは、スタッフでオカマの兄ちゃん。後でワンマンショーをやるらしい。ウェルカムドリンクを飲んでいると、運営会社の社長が挨拶に来た。
営業は今日で終了し、船は日本でエンジンを積み替えられ、パラオで第二の仕事に携わるようだ。定刻に船出した時、乗客は定員の半分以下の50名ほど。最後の航海としては少し寂しい。
食事の後、デッキへ出てみた。夕日は素晴らしかった。水平線に落ちるとき、僅かに雲が掛かったのが、このビジネスの最後を締めくくっているようだった。
翌日、ビーチへ行った。浜小屋でレンタルや、ダイビングビジネスをしている日本人のYさんに会った。彼は業務用の飛行ライセンスも取得中で、セスナ機に乗らないかと誘われる。以前もサイパンまで誘われたのだが、半日もセスナに乗るのは億劫だったので断った経緯があった。
今回は、グアムの南部を一周するだけだという。天気は申し分なかった。私が了解すると、Yさんはフライトの許可を空港へ申し込んだ。すぐに飛べるらしい。私たち夫婦とYさんは、空港へ走った。小さな島なので、思い立ったら段取りが早い。
忙しい早朝、深夜と違って、グアム国際空港は滑走路も静まり返っている。その片隅に、セスナが二機駐機していた。Yさんが始動前の点検をして、我々三名は飛び立った。案外ボロい飛行機で、シートからはウレタンが剥き出し、計器類も古い。でも飛ぶのに関係ないようだ。
午前10時過ぎに見下ろす空港は、グーグルの航空写真のようで、目新しいことは無い。パゴ湾に出て南下する。海賊マークのジェフレストランも見える。内陸部に建設がほぼ終わった廃棄物処理場が、大きな口を開けている。これで少しはローカルのポイ捨てが無くなればいいのだが。
前回とんでもない目にあったココス島が見えてきた。エメラルドの中に浮かぶ島は、とてつもなく美しい花のよう。当然、トゲも有るわけだ。独り納得する。内陸部に二箇所煙が上がっていた。グアム名物の山火事。消防車がいるわけでもなく、自然鎮火を待つのみなのか。
南部には手付かずの海岸線が多い。しかしそこへ行くには、国道からかなり険しい山下りをしなければならない。上空はこの辺りから横風が強くなるのだそうが、今日は珍しく微風で通過する。
アプラ港上空にさしかかった。昨日乗ったマイクロネシアン・ドリーム号が、寂しく係留されている。タモン湾を縦断して恋人岬の上空に来た。ここから空港へ戻る。相変わらず海で泳いでいる人は少ない。あれだけ入国審査で混んでいた人たちは、どこへ行ったのだろう。グアムへ来てビーチへ行かないのは、スイカを食べる時、塩を振らないのと同じなのに。いや、ワサビの効いていない寿司を食ってると言うべきか。
滞在中、ロスとペイレスにはしばしば訪れる。ペイレスは食品スーパーだが、たまにお買い得品が置いてある。ある日、入り口近くに、折りたたみ式のチェアが展示されていた。ビーチで休むのに丁度いい。ローカルは海の中に持って行き、足を海水に漬け、喋っている。価格はKマートの半値。迷わずゲットする。
食品の買物で悩むのは、牛乳だ。いろんな種類が有り、それぞれ効能が書いてあるが、半分も理解できない。片っぱしから飲んでみるのもいいが、牛乳パックが大きすぎて、完了するには、一年ほど掛かりそうだ。
しかし迷わず選ぶ商品もある。マンゴーアイスだ。日本の豆腐四丁分ほどのパックに入っているのだが、とても美味しい。食後、パックを抱きかかえ、むさぼり食っていることもある。
アルコールはビールが安い。350mlの缶ビールが、半ダースで6ドルを切る。ひょっとすると水より安い。ウイスキーはJ&Bをよく飲むが、大方20ドル以上する。しかしKマートは15ドル台で、一番安い。
妻はハイボールが好きなので、炭酸を見つけるのだが、スーパーでソーダはどこかと尋ねると、コーラ売り場を教えてくれる。しかし売っているのは、甘いものばかりで純粋な炭酸は置いていないようだ。
日本のスーパーで見かける見切り品も狙いどころだ。賞味期限切れ間近かだったり、少々傷物の生鮮果物。白人の中年男性が漁っていたので、我々も覗いたが、ハムや牛乳がお買い得で、ココナツミルクを買った。果物は大きなマンゴーが四個一袋で一ドル。迷わずゲット。キッチンに数日置いておき、柔らかくなったので冷蔵庫で冷やして食す。超美味。もう一袋買っておくべきだった。
タモン湾で泳ぐのは、Yさんが浜小屋を出しているウエスティン前が多いのだが、イパオビーチでも時々泳ぐ。
ホリデイリゾート横に私立の動物園があるが、側にマタパンビーチがある。ライフガードも常駐し、レース用のボートも置いてあり、高校の部活にも使われている。
週末はほとんどローカルで埋まり、BBQでかしましい。そこで今回は、一週間ほど通ってみた。我々の日焼けがローカル並みなので、周囲に溶け込んでいるのか、当方を気に掛ける様子も無く楽しんでいる。
見ていて楽しいのは、ファミリーだ。フィリピン系は大家族が多い。一族郎党で海水浴を楽しむのか、とにかく賑やかだ。子供たちが本来の姿で遊んでいるのを見ると、日本も昔は‥、なんて思ってしまう。
景気付けなのか、上屋の下には本格的な音響装置をイベント屋が設置し、DJがディスクを回しながら、音楽を大音響で流す。まったくもって、オラが天下の日曜日になる。
BBQは肉のブロックと、直径3センチはあるソーセージを焼く。食べる時は、スチームライスの上にチキンや牛肉を載せている。野菜を食べているのを見たことはない。一メートルほどの魚をフォイルで包み、網の上に置いているグループも見かける。
今回の旅行の大きな目的は、芳賀ケンさんに会うことだった。
現地で探検トレッキングの会社を運営し、出版の仕事もしている。きっかけはグアム新聞に載った旧日本兵の事だった。旧日本兵と言えば、横井庄一さんが有名だが、グアムでは大勢の日本兵が戦死している。芳賀さんは、旧日本兵の犠牲になったチャモロ人の村をたびたび訪れ、友好の碑設立やインフラ整備に力を貸している。
話を聞くと、まだ多くの旧日本兵の遺骨が、発見されていないらしい。私は自分が販売している金属探知機を使い、なんとか遺骨の発掘をし、遺骨を日本へ持ち帰るお手伝いをしたいと考えた。
芳賀さんとの何度かの話し合いの末、五月の中旬、特定した場所を探すことになった。
その場所とはローカルの老婆が、旧日本兵が大量埋葬されたのを見たという所だ。米軍のブルドーザーが、戦場跡に巨大な穴を掘り、死体を埋めたと言う。車道から数十メートル離れた、今では樹木が生い茂ったジャングルのようなところだった。
当日、芳賀さんとトレジャーハンターの白人、元海兵隊のチャモロ人と若い男、それとビデオカメラを操作する妻の総勢六名が参加。
ジャングルを進むこと十分。この辺りからと言う芳賀さんの指示で、私は最新式の金属探知機をケースから取り出した。みんなが好奇の目で見ているのが分かる。スイッチを入れ、さっそく地面をスキャンし始める。すぐにヒットした。ヘッドホンから信号が伝わってくる。
私はつま先で地面を蹴り、掘るように指示した。白人とチャモロ人二人が、一斉にスコップを突き出した。すぐに対象物が見つかった。土と同化した色の機銃の薬莢。別の場所では爆弾の破片、液体を入れていたと思われる小さな水筒。まさにバトルフィールドだった所だと分かる。
昼食を挟み、夕方四時過ぎまで作業を続けたが、出てくるのは同じようなものばかりだった。
落胆した我々は帰りの車の中では、口数が少なかった。芳賀さんの事務所で、今後の対策を話し合った。老婆の記憶が正しければ、あの広いフィールドの何処かに遺骨が眠っているはず。次回は深さ二メートルほどの試掘を、数箇所してみることでその日は終わった。全身汗だくの私たち夫婦は、すぐ近くのマタパンビーチにより、海に浸かった。疲れた体に潮水は心地よく、今日の作業が無駄でなかったことを確信した。次回はきっと探し出す、待っていてくれ。私は声を出さずに呟いた。
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| 2010年4月9日(金) |
| 今年二回目のグアム 2010 年3月4日〜3月18日 |
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今年二回目のグアム 2010 年3月4日〜3月18日
三月のグアムは日本人で一杯になる。我々もその一員だったのだが、今回も貴重な体験をした。
グアムの日差しは、この時期、特に厳しい。ビーチで過ごした後、部屋に戻れば入浴後、ボディケアが必要になってくる。ロスで購入したココナッツのボディローションは、安かったけど皮膚がゴアゴアになり、女性なら悲鳴を上げるところだ。この種の商品は注意深く使わないと、とんでもない目にあう。
芳賀健介さんに会いに行った。彼はグアムで、探検トレッキングの会社を運営し、情報誌の出版もしていて、グアムの裏表に詳しい。
驚いたことに昔のハリウッドで、オードリー・ヘップバーンの映画や「グッバイガール」で、ちょい役を演じている。
私は日本でギャレット社の金属探知機を販売しているので、その機械を使った遺骨探しが出来ないかと思っていた。
事務所はグランドプラザホテルの二階。会見は小一時間ほどだったが、言葉の端々から、グアムを本当に愛する気持ちが伝わってくる。
私は会いに来た目的を話した。
彼はちょうど、日本軍兵士が集団埋葬された場所を、地元住人から聞いたところだった。集団埋葬の噂は以前から有ったようだが、旧厚生省の動きは緩慢で、いまだ発見できていない。
地元住人とは、埋葬を手伝ったチャモロ人の息子で、父親からよく話を聞いていたらしい。私が金属探知機での捜査を持ちかけると、芳賀さんは気持ちよく共同作業を申し出てくれた。そんなわけで、五月には現地で捜査を始める予定だ。発見できれば、遺骨は数千躰になる模様で、土地が普天間移転で、米軍に接収される前の仕事としては意義が大きい。
久しぶり南部一周を思い立ち、妻と二人で日曜の朝、マリンドライブを南下した。海軍基地の正門は閉まっており、我々は横目で見ながら先に進んだ。途中、道路が橋の上で突然一車線になったり、アップダウンを繰り返し、ウマタックへ入った。
エメラルド色の海に、小さな島が浮かんでいる。三十回近くグアムへ来ているのに、ココス島に渡ったことがなかった。白人のグループがチケット売り場に並んでいる。パーキングに乗り入れるのに手間取り、チケット売り場に着いたら、フェリーボートは桟橋を離れていた。しかし我々を確認すると、再び接岸してくれた。
礼を言いながら船内に足を踏み入れると、ほとんど満席に近い。と言っても、乗客は二十数名だろう。ボートは快適に走り、十分ほどで島に着いた。桟橋の長いデッキを渡りながら、海の中を探すが魚影は見えない。フイッシュアイの桟橋とは趣が違う。
クラブハウスに着いたが、他の客も勝手知っているのか、三々五々ビーチへ散っていく。我々も桟橋が見えるビーチへ腰を下ろす。しかしシートも持ってきていなかったので、ビーチデッキをレンタルする。寝そべり空を見ると、クロアジサシが鳴きながら飛び交っている。中には乾燥した海藻をくわえ、低空飛行をするのもいた。
マスクとフィンを付け、海に入った。海底はごつごつして、海藻も茂っている。水はかなり冷たい。遊泳可能なブイまで泳ぐが、魚の群れが見当たらない。タモン湾のほうが、よほど魚影が濃い。
失望して海から上がると、しばらくデッキに横になりランチにした。一服して島内を一周することにした。以前サイパンで、マニャガハ島を一周したことがあったので、軽い気持ちで出かけた。海に向かって左回り。波打ち際を歩く。第二次世界大戦の遺構と思われる、コンクリート基礎や配管がむき出していた。足元は岩や玉石がゴロゴロしていて歩きにくい。三十分ほどで島の最先端に来た。ここから裏側になり、かなり波も荒い。人影はまったくない。
我々夫婦は水着だけで、ビーチサンダルといえ、ゴム草履だ。しばらく歩くと、地面は火山の溶岩が固まった状態で海水に入り込んでいる。もし草履の鼻緒が切れたら、足の裏はズタズタになり、考えるだけ悲劇だ。ビーチの反対側は、ジャングルが迫り、不安な気持ちが頭をもたげてくる。
しかし島の先端から一キロメートルは進んでいたので、先へ進むことにした。もうすぐ一周できるはずだ。
しかし終わりが見えてこない。ジャングルの奥行きが広いところへ出た。そこから内陸へショートカットすれば、クラブハウスの方へ戻れるはずだ。我々はジャングルへ突入した。足元のブッシュに脚を取られながら進む。樹木の幹が太くなり、立ち木の間隔が狭く、前方を遮る。人声はまったく聞こえてこない。
既に進むのは無理だった。Uターンを決意する。海へ向かって数十歩進んだ時だ、先を歩く妻が悲鳴を上げた。何事と、私が小枝を払って突進した。
突然、上半身のあちこちに針刺す痛みが走った。蜂みたいだが、影は見えない。両手で身体や頭を払い、その場を素早く離れる。
波打ち際まで戻ったが、そこかしこが痛い。唇も刺されたらしく、たちまち腫れ始めた。妻もむき出しの背中や、首あたりを刺されている。しかし処置のしようがない。
仕方なく溶岩が剥き出しの上を歩きビーチを進んだ。二十分ほどでジャングルが広がり、砂の上に車の轍が見えた。ジャングルツアーのルートに出たようだ。砂地のルートを歩くこと15分、やっとハウスが見えてきた。唇の腫れが顔全体に広がり始めていた。
ハウスに着き、スタッフに助けを求めた。しばらくして日本人のレスキュー隊員が現れ、中和剤を出してくれた。刺した虫は、二ミリほどの大きさで、グアムではブーニービー、アメリカ本土でも「ワスプ」と呼ばれる恐るべき昆虫だった。
アレルギー体質の人なら、刺されたら昏倒するほど毒性が強いらしい。あくる日も腫れが引かなかったので、Kマートでイッチストッピングクリームを購入して塗ると、やっと痒みもひき、腫れも治まってきた。
裸同然でジャングルに入るのも無謀だが、横井さんの用意周到さを改めて感じ入ったしだいだ。
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| 2010年1月20日(水) |
| 今年初めてのグアム |
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家庭の事情でグアム行きが伸びていたが、やっと正月明けの七日、妻と二人で関空を飛び立った。日航の去就が問題にされている時なので、安全飛行を気にしていたが、問題なく定刻に到着。
入国審査官は女性だった。二週間の滞在なので、どこに泊まるのかと訊く。ピアマリンだと応えると、妹の家かと訊く。どうして妹が出てきたのか分からないが、自分の家だと応えると、オーナーかと質問して来た。頷くと、顔写真と、指紋を取られ放免される。パスポートはグアム入国ばかりのスタンプなので、その都度どの審査官も目的をしつこく訊く。今回も所要時間10分程度だった。他人と比べて長い。
飛行機の乗客は半分ほどだったので、バッゲージのコンベアは既に止まっていた。トランクを三個、カートに載せチェックを受ける。食品の有無を聞かれたが、ここもスルー。タクシー乗り場へ向かった。
やって来たのは大型タクシー。ピアマリンまでと告げ乗り込む。冷房は効いているのに、服装は冬装備なので、汗が吹き出てくる。
ピアマリンの構内に入った。私の車が所定の場所に止まっていて安心する。盗難保険は掛けているが、盗まれていたら手続きが煩雑だ。20ドル支払い、車を降りた。部屋に入り、荷を解きベッドに入ったのは、午前4時前。思い出し、ドコモを現地モードに切り替えた。これで日本とも即時通話が可能になる。
寝苦しかったので、起きたのは7時過ぎだった。それでも3時間は寝たことになる。掃除しながら、洗濯機に汗で湿気たシーツを投げ込み、車の所へ行ってみる。ボンネットを開け、外していたバッテリーコードを繋ぐ。恐る恐るエンジンを掛けてみる。三ヶ月ぶりだが一発でエンジン音が轟いた。シェビーの小型車も、今のところはトヨタカローラと匹敵する。
一応、部屋も車も奇麗になったところで、いつもの行動に移った。マリンドライブを南下、日本総領事館の信号を超え、右側にあるファーストハワイアン銀行へ乗り入れた。カードで玄関前の現金支払機からドルを引き出す。隣のカリフォルニアマートで、アルコールや当座の食料品を仕入れ、車に積み込んだ。向かいのGPOへ出向き、下のフードコートで、韓国料理をチョイスする。妻はいつものサンマのフライ。私は酢豚モドキにレッドライス。マンネリもいいとこだ。
食事を終え、ロスに寄って見る。ローカルにも人気の一応アウトレットだが、改装前のほうが気に入ったものが多かった。何も買わず、コンドミニアムへ戻った。買った食品を冷蔵庫に詰め、ビーチへ向かう。ウエスティンホテルの地下駐車場に車を停めた。ビーチの人影は少なかった。遅れた正月を楽しむ家族ずれが数組だけ。幼児を連れた韓国の若夫婦が多い。しばらくデッキチェアで休み、一回だけシュノーケルをした。リーフ内は穏やかで、海中の魚もいつもの連中だった。
翌日は土曜日。ジーゴ地区へ向かい、道路沿いのペイレスに入る。空軍基地が近いせいか、このスーパーには白人客も多い。それでコーヒーの種類も多そうなので、数種類購入する。
車で更に北へ向かった。「南太平洋戦没者慰霊公苑」は何度も行っているので進入路を間違えることはない。線香を供え、携えたビールを霊前に供える。この島に散った日本兵の無念さに心を偲ばすと、いつ来ても厳粛な気持ちにさせられる。
グアムは既に乾季に入っているのに、今回は荒れた天気が多かった。強い風と、激しいスコール。ビーチでの強い雨は、観光客を屋内にUターンさせる。気が付いたら、我々夫婦だけになっていることもあった。
毎日ビーチで寝そべっていては、体重も増えるので、ウォーキングを取り入れた。距離はウエスティンからマリオットまで往復五キロほど。水着だけで、ビーチサンダルを持って歩く。約一時間の行程だ。砂の上を素足で歩く感触は気持ちが良い。数日続けていると、同じように歩いたり、走ったりしているローカルと目が合う。言葉は掛け合わないが、目の合図や、手を上げ微笑を返してくる。
シュノーケルしていて気になっていたことがある。海中に空き缶を見つけることだ。砂浜に転がっていた空き缶を、波がさらって行くのだろうが、透明度の高い海にはそぐわない。
空港に近いホームデポに行った。巨大なホームセンターで、一つ一つ商品を見ていたら、興味が尽きない。探していたものが見つかった。長さ一メートルほどのパイプの先が、手元のハンドルで指先のように動く。簡単なマジックハンドだ。
早速ビーチへ持って行き、シュノーケルしながら海中の空き缶を回収する。しかし見つけるとなると、空き缶はなかなか目に付かない。砂浜に上がり、今ではオーロラホテルと名を変えた昔のホテルオークラの方へ歩いた。岩壁の斜め上にはニッコーホテルがそびえ建っている。
ゴロゴロした岩の上を歩きながら空き缶を拾い、ビニール袋に回収していく。ここは岩壁を波でえぐったケーブや木陰も多く、日曜日はローカルの家族がBBQをするところだ。そのせいか、空き缶も散らかっている。平日のその日は静かだった。ふと人の気配がした。年配の女性が一人、小石を水に投げ込んでいる。寂しそうな感じだ。相手は私を気づいているはずなのに、目を合わせようとしない。岩壁の下の、小さなケーブの周辺で空き缶を集めていたら、袋が一杯になった。日本人にも見えるその女性を遠目にしてその場を離れた。
翌日、ビーチで休んでいると、顔なじみのボート小屋で働くチャモロ人二人が、岩壁の方へ猛烈な勢いで走って行った。日本人のオーナーがハンドマイクを片手に私の前を横切った。「誰かおぼれたの?」私の問いに、オーナーは「人が死んでいるらしい」。
海上には進入禁止になっているのに、水上バイクが現れた。オーナーがホテルニッコーを指差し、ハンドマイクで何か叫んだ。今ではポリスと判る水上バイクがスピードを上げ岩壁へ向かった。
私は昨日の年配の女性を思い出した。様子が変だった。自殺したのだろうか‥。逡巡しながら立ち上がりかけた。そのとき五、六人の警官の集団が目の前を通過した。女性警官も一人混じっている。拳銃に抜き身のコンバットナイフで武装していた。明らかに鑑識と思われる白人の警官が長方形のボックスを持って後に続いている。現場は私の座っている場所から二百メートルも離れていない。
我慢しきれなくなった私は立ち上がった。すでにオーロラホテルに登る階段からビーチに掛けて、バリケードテープが張られている。近づくとゴリラのような黒人警官が、駄目だと警告してきた。
割り切れない私はオーナーに、昨日の小石を投げ込む女性の話をした。彼の返事は意外だった。一週間前に失踪したベトナム人女性で、死体は可なり腐乱しているらしい。見つけたのは地元の漁師で、なるほど現場で警官と立ち話している。
見つかったのはケーブの中で、その場所なら昨日私が空き缶を回収した所だ。年配の女性でなく良かった。警官二人が、ボート小屋のチャモロ人と、オーナーからも事情聴取をしていた。もし私が見つけていたら、厄介なことになったかもしれない。鑑識は可なり長く掛かっていた。夕方近くになって終わったのか、シートに包まれた死体が、担架に載せられ運び出された。しかし翌日の新聞も、その次の日も現地の新聞には一切記事が載っていなかった。狭い島なのに、死亡事件が記事にならなかったことに、少し不安を感じた。
毎日ビーチを歩いていると、肌がオイルのせいでタン色に輝いてくる。チャモロ人にも珍しいらしく、「ほんとに日本人か?」とか「ブラザー」とか声を掛けてくる。ボート小屋のスタッフは、私のことをダークベーダーと呼んでいるらしい。オーナーから聞いた話だ。
地元の不動産リアルターから、改装したばかりのコンドの見学に行かないかと話が来た。場所はフェイスタホテルの隣、ビーチフロントレジデンス。レンタルオンリーだが、最上階はスリーベッド、ツーバスの高級ホテル並みの仕上がり。家賃も高く、月3400ドル程度。しかし駐車場の問題で共益費が決まっていない。もちろん水道代、電気代は別。可なりの高給取りでないと入れないが、ミリタリーのオファーは数件あるらしい。フェンスを開ければ、目の前がビーチ。そのビーチから海へ入ったが、透明度はタモン湾でも最高で足の爪まで見える。しかし潮の流れが強く、泳いでいても流されてしまう。サンゴがないので、小魚を観察するにはイパオやウエスティン前の方に分がある。
今回のグアム行きにはもう一つ目的があった。運転免許の切り替えだ。日本の運転免許証でも30日は問題ないが、高額な買い物でカード決済時、IDの提示を求められる。その都度パスポートを持参するのは煩わしいので、グアムの運転免許証を活用する。
切り替えは初めてなので、日本総領事館へ行く。館員もツーリストの一年更新の切り替えは初めてと言い、とりあえず陸運局へ行くことを進められる。どちらにしても社会保険番号を持っていないので、ソーシャルセキュリティ管理局へ行くのが先だ。一年前の混雑振りを思い出し、気を取り直し管理局へ向かった。場所はデデドのディスカウントショップ、コスチューレスの隣。駐車場は空いていた。ラッキーと思いながら扉を開けた。警官が金属探知機を持って待機していた。ボディチェックとバッグを調べられる。目的を訊かれ、横のディスプレーのタッチ版を触れるように言われた。座って待っていると、どこかの島から来たのだろう、ヨタヨタした老人が入ってきた。警官に訳の判らないことを繰り返し述べていたが、警官もなれたもので代わりにタッチ版を押してやり、椅子に座らせた。
私の順番が来た。窓口へ行き、ツーリストだがドライバーズライセンスのリニューアルだと告げる。窓口の女性はパソコンにパスポートのナンバーを打ち込み、免許証を見てデナイアルレターを発行してくれる。意外と簡単にいった。元気付いた私は、陸運局へ車を走らせる。ここも混雑しているが、切り替え申し込み用紙に所定の事項を書き込み、デナイアルレターと一緒に窓口に提出する。ところが窓口のチャモロネーチャンは、お菓子を頬張りながら、隣とぺちゃくちゃやっている。やっと仕事をする気になったのか、目の検査をすると言う。検査が済むと、25ドル払ってこいと、あごで後ろのほうを指し示した。支払ったレシートを窓口裏のチャモロおじさんに渡す。この人の仕事は速い。椅子に座らせデジカメで撮影。小さなディスプレーにサインすると、そのまま免許証に転載され、一分ほどでラミネートの免許証が渡された。顔写真は、サングラスの後だけ白く残し,日ごろのビーチ歩きで真っ黒。新聞にでも載れば、まるっきり極悪人の顔だ。しかし段取り良く免許証が手に入ったので許すか。
去年エアショーを見学しそこなったが、貴重な体験をした。ラプターF22戦闘機は、現在世界最強のステルス戦闘機だが、昼間飛べば、もちろん目視できる。ある雨模様の日、ビーチでパラソルの中にいると、雲の切れ間から爆音が聞こえた。徐々に近づき、突然雷鳴をデジタル化したような轟音が聞こえた。見上げるとグレーの機体が、ニッコーホテルの上空をかすめて行った。もう一機続く。着陸態勢でなく、空中戦のようなスピードと機体の動き。折り返して来たのか、素早く沖の方へ飛び去った。これを二、三回繰り返し、アンダーソン空軍基地のほうへ戻っていった。実機が飛ぶのは始めて見たが、前の席に座っていた白人も興奮して立ち上がり、ラプター! ラプター! と叫んでいる。航空自衛隊が次期戦闘機として欲しがった訳がわかる。運動性能はポルシェとトヨタクラウンの違いだろうか。飛行音だけでもCDに録音したいくらいだ。
旅行中の連絡はワールドワイドの携帯電話で事足りるが、パソコンがあればなお便利だ。自室のテレビはNHKが入らないので、情報はヤフーを見ることになる。今回も東芝のノートパソコン、ダイナブックを持参する。しかし海外から見る日本のニュースは、一週間で一日分に圧縮できるほどの内容の薄さを感じる。帰りの飛行機の中で、JALの会社更生法を知った。飲み物を運んできたキャビンアテンダントに、これからも頑張るように激励したが、「私は歳だし、クビになります」と言って微笑んだ。残るも地獄、辞めても地獄‥。人によってはこんな状態が続くのだろう。機長の倒産の事実を詫びる機内放送を聞きながら、上下の目蓋が合わさってきた。エンジン音はそんな声を掻き消すように、快調に伝わってくる。次もJALにするか‥。意識が遠のき始め、眠ってしまった。
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| 2009年9月28日(月) |
| 九月の二週間 |
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海に行けない日が多かった八月が終わり、欲求不満のままグアムへ向かった。深夜の空港に着陸、土曜日になっていた。入国審査に手間取る。パスポートのスタンプもグアムのものばかりだし、回数も今年だけで片手になるからだろうか。五分ほど質問され、やっと解放してもらう。やれやれだ。日本の入国審査でも、外国人に対し、こんなに嫌味たらしくしているのだろうか。
タクシーでコンドへ向かう。ガソリンの価格が以前より少し上昇しているが、降車時、二十ドルしか支払わない。ドライバーに乗車時、そう告げておけばトラブルになったことはない。
二ヶ月ぶりの部屋に変わったことはなかった。荷物の整理をしてベッドに入ったのは明け方近く。ウトウトしていたが六時にはベッドを出た。日本なら早朝五時だ。起床の時刻はそんなに変えられないらしい。二ヶ月も乗っていなかった車が気になり駐車場へ急ぐ。ボンネットを開け、外しておいたバッテリーコードを繋ぐ。盗難防止用の警報がけたたましく鳴るが、構わずエンジンをかける。震えながらも一発で始動。気を良くして洗車のため散水用のカランまで車を動かす。二ヶ月間の垢を洗い落としてやった。
部屋の掃除も丹念に済ませ、十時には銀行へ向かった。入り口にあるATMで現金を引き出す。向かいのロスが売り場面積を広げたのを知っていたので、覗いてみる。陳列の場所がだいぶ変わっている。ウインドブレーカーを一枚買って退散。長居すると衝動買いの恐れがある。新しい商品が入荷する水曜日辺りが狙い目だ。
同じ敷地内の、カリフォルニアマートへ食品の仕入れに行く。韓国系のスーパーなので、日本の食材に似た物も多い。野菜に果物、肉、魚、パン、ジュース、牛乳、ウイスキーをカートへ放り込む。買いすぎに注意して清算を済ますと、カートを車まで動かす。グアムも車無しで買い物をするのは、苦行以外何ものでもない。以前車がないときは、ショッピングバスかタクシーを利用したが、初日の買い物の苦労はコンドで暮らす人にしかわからない。
ブランチを摂るつもりで、フードコートへ行く。単に傾斜地に建物を建てた結果なのだが、GPOの1階から地下へ向かうようになる。ここでも韓国料理のコーナーへ足が向く。オーナーがピアマリンのレストラン「コリドス」を経営しているので、味はまあまあだ。チョイスしたのは、酢豚にサンマ、焼き飯、キムチ。一頃は日本人観光客でごった返していたが、今はローカルがほとんど。もっとも我々の旅行が、シーズンを外しているのだが。
いったん部屋に戻り、買ったばかりの生鮮食品を冷蔵庫へ詰め込む。さっき食ったキムチが臭うので、歯磨きをする。
車でタモン湾へ向かい、ウエスティンホテルの地下駐車場に停める。シュノーケルセットを抱え、ビーチへ出て行く。空は曇り、リーフの白波は高く打ち上がり、ゴーゴーと音を立てている。湾内も波がある。始めて見る荒れ模様だ。ダイビングショップのチャモロたちが、スコップの手を休め、ニコニコして手を振ってくれた。顔なじみなので、いつも愛想がいい。聞けば台風は逸れたが、砂が押し上げられ、ショップの通路も埋もれていた。砂かきと打ち上げられた海藻集めは彼らの重要な仕事らしい。日本では13号と呼ばれた台風の爪痕だ。
海に入る雰囲気ではないが、リーフに近づかなければ大丈夫と思い、シュノーケルを口にくわえた。海水は乳白色で視界は悪い。二百メートほど沖の、ポイントブイへ向かって泳ぐ。フィンを動かすが沖からの波でなかなか先へ進まない。うねりでブイの確認も難しい。なんとかポイントにたどり着き、海中の様子を観察する。いつもの魚たちが視界の悪い中から浮かび上がってきた。初日はこんなものか。踵を返しビーチへ戻った。
翌日曜日から四、五日は晴天が続いた。毎日ビーチへ繰り出し、オイルを塗ったせいもあり、こんがりと日焼けしてきた。海水は透明度をまし、ますますクリアーになってくる。午前中は引き潮で、リーフまで歩いて行ける。
もちろんシューズは必要だが、波で洗われた大地はサンゴもなく比較的歩きやすい。しかしここまで来るのは、地元の漁師か慣れた観光客だけだ。北を見ると、ガンビーチ越しに恋人岬の断崖の足元も見える。
気になっている事を、まだ済ませていなかった。
翌朝、車を北のジーゴ地区へ走らせた。もう何度も行ったことのある、南太平洋戦没者慰霊公苑。アプローチは左側に米軍関係者の住宅。入り口を入ると砂利の敷き詰められた駐車場。この日は奥に、公園整備の草刈職人の車が二台。私は隣に車を滑り込ませる。人影はない。草刈機のエンジン音が微かに、下の洞窟の方から聞こえてくる。私は祭壇のロウソクに火を灯し、石碑に水を掛けた。お供えに持参した缶ビールをそっと置く。
左側にどこか日本の高校の短冊と、千羽鶴。私は手を合わせながら、グアムを訪れる若い人すべてに、必ずここまで来てもらう方法はないのだろうかと考えた。でも今のような静かで寂しい雰囲気が消えてしまう恐れもある。たたずむだけで、ピースフルな気持ちになるここは、グアムが戦場だったことを思い起こさせる最適な場所だろう。
週末は日本人も目に付くようになった。子供連れ、会社の慰安旅行、学生カップルのパック旅行など。韓国人は居ても以前ほどではない。やはりウォン安で海外旅行は裕福な人たちに限られているのか。中国人はすぐ判るが、まったく見ない。
一週間も焼いたせいで、肌色はチャモロと同じ色になっている。デッキチェアで寝そべっていると、日本の中年婦人に、英語で隣は空いているのかと尋ねられる。
コンドではNHKテレビが映らないので、英語の放送ばかり見ていた。コマーシャルは健康器具に化粧品、ファストフードが多いが、変わったものもあった。
女性が地下駐車場を、あたりの気配を気にしながら急ぎ足で歩いている。黒い影が動く。女性はハンドバッグから拳銃を取り出す。次の場面で、なぜかスイカが炸裂する。続くセールストークに、「今度のマグナムはエクセレント」。何のことはない、拳銃のコマーシャルだ。それほど銃が身近にあるのだろう、又は必要なのか。うっかり盗撮でもしようものなら、撃ち殺されても文句が言えない
。
翌週は天候が変わった。雨が突然降り出し、風も強い。テレビで雲の流れを見ていても、グアム周辺で雲が渦巻いていた。特にサイパンがその中心になっている。翌日、台風が発生したと報道が繰り返されている。チョーイワン、台風の名前らしい。日本では14号と呼ばれた。
夜中も激しいスコールと、風が強い。もし東で発生して、発達しながらグアムを直撃すると大災害になると言うわけだ。今回は台風の卵を経験した事になる。しかしすぐ動く気配はなく、スコールと風は昼夜構わず襲ってきた。コンドの一階フロアにも、飛行機の出発時間が延びたと張り出されている。帰国はまだ数日先だが、早く西へ移動して欲しいものだ。
ビーチへ行っても、雷とスコール、強風で人影が少ない。仕方なくスーパーのペイレスや、ロスで買い物をすることになる。発見したことだが、キュウリのピクルスとパプリカを重ねて食べると、パプリカが甘く感じる。朝食のメニューに欠かせなくなった。朝食と言えば、牛乳、コーヒー、ジュース、チーズ、ハム、ソーセージの種類の多さには迷ってしまう。最良の組み合わせにたどり着くには、何年掛かるやら。
ロスにはビーチ帰りにもよく寄った。衣類が主のアウトレットだがかなり安い。しかし商品の数が多く、気に入った物をゲットするのには根気がいる。以前のレジは待たされたが、今度は一列に並び、空いたカウンターへ順番に進むことになった。ちょっとはましになったか。ローカルの親子連れが目に付く。特に幼児が可愛い。男子の中、高生はシューズ選びに熱心だ。
最後の日、地元在住の日本ご婦人グループにランチを誘われた。場所はウエスティン前のコンビニABCが入っているビルの二階、「ギョウザヤタイ」。彼女達がオーダーしたのは、石焼チャーハンとギョウザ。味はまあまあだが、日本のとは程遠い。その後ビーチで、もう一度と思ったが、雨も降り出し叶わなかった。コンドへ戻りクルマを駐車場へ停めると、ボンネットを開けバッテリーコードを外した。
都合で今度島に来られるのは、来年一月ごろになるだろう。
こうして慌ただしい二週間は終わった。
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| 2009年7月5日(日) |
| お早うウォーキング |
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先月のグアム行きで、貴重な体験をしてきた。現地の日本人会、ご婦人達からのボランティアのお誘いだった。私も日本人会に所属しているから、異存はないのだが、何せ初めてのこと。どんなボランティアか興味が湧いた。
内容は、ビーチの清掃らしい。毎日、海でシュノーケルを楽しんでいる身としては、願っても無いチャンス。二つ返事で参加を約束した。
日曜日の朝五時半、イパオビーチ公園に車を止める。時間前だが、数人が集まっていた。定刻に幹事が、軍手と黒いビニール袋を配布する。清掃する範囲は、ヒルトン横のイパオビーチから、ハイアットまでのタモンビーチ。折り返しホテルロード沿いの清掃だ。
百人を超える参加者の記念写真が終わり、スタートする。このイベントは、清掃を兼ね、早朝ビーチを歩く健康促進も目的だと分かった。とりあえず、砂浜をチェックしながら歩き出す。イパオビーチは、休日のローカルの溜まり場なので、タバコの吸殻は結構多い。ビーチとホテルの境界付近の草むらには、かなり空き缶も目に付く。拾っている間に、先頭グループとは大きく離れ、最後尾になってしまう。
時々、歩き疲れ砂が絡まった足を波打ち際で洗う。このルートはウエスティンから歩いたこともあり、大したことはないと思っていたが、ゴミを集めながら歩くには少々厄介だ。
遠浅の海の中には、フィリピン人の女性グループが大声で話しながら水浴をしている。多分朝まで仕事をして、疲れた体を海水で癒しているのだろう。前方から裕福そうな歳を取った白人が、上半身裸でランニングしてくる。だぶついた肉には、そうとう贅沢な金が費やされているようだが、これからこの肉をそぎ落とすにも同じくらいの金が必要になるかもしれない。
ハイアットの手前で、幹事数名が氷の入った桶にペットボトルを冷やしていてくれた。ゴミの入った袋を渡し、新しい袋とボトルを貰い一気飲みをする。妻たちのグループはとっくに先を行っているようだ。喉を潤し元気づいた私は、ホテルの路地を抜け、ホテルロードへ出た。グアムの銀座通りだ。
太陽は既に強烈な紫外線を放出し、じりじりとTシャツの上からも肌を刺す。幸い歩道は奇麗で、ナターシャ保護法のせいか、タバコの吸殻も滅多に見つからない。フィエスタ・リゾートの玄関前から、先ほど出会ったランニング中の白人が目に入った。すれ違う時、私は目で挨拶した。
「グッドモーニング」、先方が応えた。
気持ちとは裏腹に、脚が重くなってきた。ビーチサンダルが体重に耐え切れなくなり、足の形に凹んでしまっている。PICを通過したので、イパオ公園はもうすぐだ。
コーナーを曲がると、公園の中に、今日ビーチで過ごそうとするローカルの車が、かなりの数で目に入った。緩やかな勾配を速歩で駆け下り、やっとゴールに到着。袋を集積場所に投げ捨て、軍手を剥ぎ取りペットボトルを受け取った。ねぎらいの言葉を背中で聞き、軽食のタコスを貰う。
妻はヤシの根元に座って、ペットボトルを手に虚ろな表情をしていた。かなり疲れたのだろう。足元には封を切っていないジュースパックが転がっていた。二時間も歩いたのは、私も久しぶりだ。お互いシャツは汗でグショグショになっていた。
イベントは散会になり、三々五々みんなが帰り始めた。私たちは車で水着に着替えると、満潮の海に入った。ローカルの老人が、何か餌をまいていて、その周りで小魚が跳ねている。邪魔をしないように脇をすり抜け、沖へ泳いだ。シュノーケル越しに、テバスズメダイやモンガラが目に入る。まだ早いのか、大型の魚は姿を現さない。
フィンをゆったりと動かすと、脚から嘘のように疲れが抜けていく。同時に絡まるようにまつわり付いていた汗も洗われていく。海水の効力はすごい。
三十分ほど泳ぎ、岸へあがった。既に多くのローカルが、BBQの準備をしている。
私は少しばかりグアムの人間になったような気になり、公園から車を出した。
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| 2009年7月3日(金) |
| 土地視察 |
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土地視察 7月3日 2009
六月末まで、10日間ほどグアムへ行ってきた。事前に土地情報を得ていたので、現地の不動産屋と同行する。目的はサイトにも載せているが、商品番号09-1670のスターツゴルフ場に隣接した土地。
この不動産屋、イタリア人で癖のある早口英語は聞き取れないが、同行した日本人のリアルターが何とか訳してくれる。しかしここはイタリア人、目的の土地へ行く前に、手持ちの物件を二、三ヶ所案内するという。仕方なく付いて行った。
最初に案内されたのは、ジーゴ地区のスーパー、ペイレス近くで、R2ゾーンで集合住宅も建てられるらしい。敷地には廃材とおぼしきコンクリートガラが盛られている。給排水、電気も来ていてインフラは整っている。私が首をかしげると、二件目へ向かった。
次もジーゴ地区。二方が道路の角地。裏には新築の建売住宅が建っている。土地のレベルも整っていて、高級住宅地になるだろう。しかし価格も相応に高い。
三番目は開発を待つ広大な宅地で、インフラも整い、住宅分譲地としてはかなりランクが上の物件。アンダーセン基地からも近く、米軍移転を当て込んだ青田買いの土地だ。いたるところに、不動産屋の看板が立っている。しかし周囲に家は無く、こんな所に一軒家を建てても、商品にはならない。
私が無表情なのを感じ取り、このイタ君やっと目的の物件に向かいだした。デデドの住宅地を通り抜け、スターツゴルフ場の裏に来た。フェンスに沿って暫く走ると、舗装が地道に変わり、目的地に着いた。敷地には境界杭が打たれ、正面には旗が立ったグリーンが見える。通路を隔てアイアンウッド社が開発したサブディビジョン、平屋の公営住宅団地が目に入る。
敷地は樹木が生い茂り、ちょっとしたジャングル状態。私は何度も前面道路を往復し、土地の感じを頭に叩き込む。
私の構想は「遼君効果」だ。石川遼(17)君の影響で、若年からゴルフに熱中する者が増えた。本人の意思であったり、親の希望であったり色々だが、上達には環境が大きく作用する。それにこれからのプロゴルファーは、英語が話せなくてはならない。
このワンエーカー(4,047u)の敷地に、住宅とバンカー付きの練習グリーン、ドライビングレンジを造れば、ゴルフ漬けの生活が出来る。実践は向かいのスターツゴルフ場で平日周れば、ツーラウンドも可能だ。現地の学校に通い、英語を学べば、日本に居るよりはるかに効率が良い。
トップのツアープロの仲間に入ろうとしたら、これくらいの投資は必要になる。さて、イニシャルコストの見積もりだが、一億円は掛かるだろう。プロゴルファーに育てたい子息をお持ちの親御さん、投資してみる気は有りませんか?
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| 2009年5月15日(金) |
| 銀行口座 |
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グアムで銀行口座を開くのは難しいことではない。私が口座開設に迫られたのは、不動産購入がきっかけだった。ネットで事前に調べておいたファースト・ハワイアン・バンク(FHB)タムニン支店へ出かけた。現在はマリンコープ沿いに新店舗がオープンしたが、以前はコスチューレス隣のフォトプラザにあった。
日本人スタッフもいたので、日本での口座開設と同じ感覚で進む。普通と当座がある。違うのは当座が簡単に開設できる事だろう。利子は付かないが、小切手帳が貰える。もちろんキャッシュカードも発行される。日本からネットで、自分の口座をいつでも見られるオンラインにも加入する。元金300ドルほど入金し、サインと暗証番号を登録すれば完了。定期預金の金利が高いので、手持ちのお金でCD預金をしておく。
購入したコンドミニアムは、すぐにミリタリーのテナントが付いた。毎月の家賃が銀行に振り込まれる。その中からコモンエリアフィー(共益費など)を小切手で、コンドミニアムアソーシエーションへ支払う。その他にも小切手の活用は広い。固定資産税、家電など大きな買い物、弁護士や会計士、保険会社への支払いなど、日本より使用頻度が多い。
キャッシュカードも便利だ。マイクロネシアモール、GPOのフードコート、アガナショッピングセンター、空港などATMが設置されていて、いつでもドルが引き出せる。
新しいタムニン支店からは、歩いてGPOへ行けるのでますます便利になった。
この銀行はわりと保守的だそうで、金融危機にも倒産するような心配は無かった。しかしスタッフの人数は減らされ、かなりの雇用調整が行われている。
新店舗の内部は、当然広く、美しい。現金の出し入れカウンターはローカルが並んでいるが、ビジネスの顧客はアポイントを取り、衝立で仕切られたブースでスタッフと面談する。日本の銀行では、お盆時に女性スタッフが浴衣を着ることがあるが、グアムではハロウィンの季節は仮装していた。アメリカの銀行には拳銃を所持した制服ガードマンがいるが、この銀行にはガードマンさえ目に付かない。銀行強盗しても、小さな島ではすぐ捕まるということなのだろう。
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| 2009年4月17日(金) |
| 屋外射撃体験 |
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一度はやってみたいと思っていたので、射撃場へ行ってみることにした。場所は横井さんで有名な、タロフォフォの滝近くらしい。地図を頼りに出発した。ハガニアのロータリーから四号線に乗った。途中、レオパレスリゾートへ入る進入路を右に見ながら直進する。突然、車の流れが悪くなった。事故か‥、近づくと案の定そうらしい。白バイが二台、ポリスが交通整理していた。アームでゴミコンテナを上げ下ろしする車が、走行中にコンテナを下ろし、後続のワンボックスカーのボンネットを傷つけ、さらに後続の車がオカマしていた。充分な車間距離をとっていれば、防げた事故だが、グアムのドライバーは結構飛ばすから避けられなかったのだろう。パゴ湾を抜け、大きなドライブインの前を通過。ひたすら四号線を南下する。
途中、標識はあったのだろうが、いつの間にかイナラハンの村に入っていた。間違いに気づき、Uターンする。こんどは注意深く標識を見ていたので、屋外射撃場の看板に気が付いた。左折し坂を下り始めると、絶景が目に入った。小さな湾がシュノーケルをしろと手招きしているようだ。運転する妻に、帰りに寄ると伝え、そのまま登り坂に突っ込んだ。ヘアピンカーブの連続と、かなりのアップダウンが続く。それにかなりの通行量だ。大型生コン車と何回もすれ違う。雨の降る夜中なら、そうとう怖い。峠の上に来たのか、走りやすくなった。しばらくして屋外射撃場の看板が目に入った。車を指示に従って乗り入れる。原野に近い中をひた走ると、今度こそタロフォフォ滝の入り口に到着した。小さなテーマパークらしく、チケット売り場がある建物が目に入った。私たちは車を降りた。一頭の豚が迎えてくれる。射撃場は横の道を入っていくらしい。歩いてスロープを登ると、コンテナハウスが見えてきた。
中に入ると、店主と思われる男性が、スタッフに何か指示している。壁には本物の銃がディスプレーされていた。射撃にはメニューがあり、料金がそれぞれ違う。私は下から二番目のBコースにした。保険料も含め90ドル。拳銃とショットガンが撃てるらしい。コンテナを出て射撃場に入ると、既に先客が10名ほどいた。スタッフのボスが説明を始める。安全第一と叫んでいる。当然だ。中には上へ向け発射した奴がいたらしい。庇のコンクリートに傷が付いている。標的の後ろを防護している丘を越えないようにとも言った。丘の後ろは自分の家らしい。笑えるジョークだ。最初は全員オートマチック拳銃のマガジンに弾を詰める。マガジンのスプリングが強く、弾がなかなか上手く入らない。最後のほうはスタッフが手伝ってくれる。用意が出来ると、両手でグリップを包み込むようにして握った。引き金を引く。軽く反動が起き発射される。薬莢がコンクリートの床で跳ねた。
撃ちつくすとインストラクターがショットガンを持ってきた。静かになった射撃場の中へ連れて行かれる。数発の弾を込め、ポンプ作動する。標的は10m先のポリ缶。引き金を引くと、轟音と共にポリ缶が吹っ飛ぶ。肩に軽い衝撃。なかなかの迫力だ。初体験は終わった。少しふらつく足取りでコンテナハウスを後にした。
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| 2009年4月16日(木) |
| ロス |
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正式名称はロス・ドレス・フォー・レス。グアムに行った事のある人なら、必ず立ち寄ったところ。私もグアムへ行けば、火曜から金曜の間はほとんど毎日覗く。買わなくても、雰囲気が好きだ。週末は人が多くて、買い物にならない。ねらい目は朝の10時に入ること。アパレルが主流のアウトレットだが、クッキーまで置いてある。衣類や靴は、サイズが日本人には大きめで、フィットする物はすぐに無くなってしまう。ここで買い物するコツは、目的を持って行かない。衝動買いをする。この二つである。
少なくとも私にとっては。入り口を入って奥に、グアムの若者にも人気の靴コーナーがある。気に入った物はもう少し後でとか、他と比べてとか考えない。良いと思えば、即ゲット。それにしても外人は足が大きい。ひさしの平らな野球帽に、長めの半ズボン、大きな靴。ラッパーのスタイルがお気に入りのようだ。その並びは、キッチン用品やコピーの絵画、インテリア小物、寝具、大きなスペースで、女性の衣類、私がお気に入りのTシャツやジーンズ、インナーなどなど。そのうち、ローカルで混んでくる。それぞれがお気に入りの商品を抱えては、とっかえひっかえ、それで選ばれなかった商品は、関係の無い棚やハンガーに置かれていく。
それならまだ良いほうで、床に落とされ、踏んづけられるものもある。スタッフもたまには、元に戻しているが、半ばあきらめ顔。最後にレジに並ぶのだが、ここから一苦労。日本のように素早くとはいかない。ここはグアムだからと諦めるしかない。時々、レジと連動したパソコンが故障する。するとお手上げだ。客の名前を書いたカードと商品が袋に入れられ、壁際の棚に積まれていく。現金で支払うと言っても、一切受け付けない。欲しければ、故障が直ってから来てくれと言う。
いつ直るのかと聞けば、分からない、明日には直ると答える。帰国が明日だといっても、通用しない。こういう時は、二、三時間後に来てみれば、たいてい故障は直っている。
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| 2009年4月15日(水) |
| リティディアン |
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ココパーム・ガーデン・ビーチには数回行ったことが有るので、リティディアンは北端の岬だというのは知っていた。北のビーチはタモン湾と違って、季節風が強い二月ごろはとても風がきつく、砂が舞ったり、肌寒かったり、あまり良い所ではない。しかしココパームは、スタッフの努力と、施設の充実でグアムでは五つ星のビーチであることは間違いない。もともとこの辺りは、米軍が占拠していて、一般の人は進入禁止になっていた。徐々に規制は解かれたが、現在、リティディアンの最北端までは行くことが出来ない。
私たちは穴ぼこだらけの道をとばし、ココパームへ向かう道から分かれ、リティディアンへ向かった。米軍の施設と思われる建物の前をUターンする形で、ビーチの方へ進入した。森の中に所々、車がやっと駐車できるほどのスペースが空いている。さらに進むと、途中で追い抜かれた白のマスタングが幌をオープンにしたまま駐車していた。日本の若者が四人乗っていた車だ。さらに奥へ進むと、小型車が駐車していた前にスペースがあったので、車を停めた。さっそくトランクを開け、シュノーケルとフィンを取り出した。森がひらけ、ビーチが見える丘で、若い女性がフラダンスの練習をしている。こちらに気が付き、ギョッとしたようだが、こちらも驚いた。ビーチに降りると、男性が海から上がってくるところだった。先ほどの女性とカップルなのだろう。日本人のようだったので、「流れは速い?」と聞いてみた。頷いている。ビーチはいまや私たち夫婦だけだった。水着になり、シュノーケルセットを身に着けると海に入った。かなり潮の流れが速い。魚を探していると、どんどん流される。ココパームと違って餌付けされていないから、魚影は少ない。ライフガードもいないから、流されたらサメの餌になる可能性大である。実際、一週間前も漁師がリーフの外でサメに襲われている。ここら辺りで襲われた人の水着が、グアム大学のあるマンギラオ沖のサメの腹から出てきたこともあるらしい。
私たちは車に戻り、米軍施設のある駐車場に車を止め、再びビーチへ出た。第二次世界大戦の遺物か、海中に橋桁の基礎だったのかコンクリートの塊が波に洗われている。ここにはテープが引かれ、これより北は進入禁止となっていた。遊泳も禁止だ。風景も荒涼として寂しい。見上げれば絶壁が、人間の侵入を拒んでいるようだ。鳥が小さい点となって輪をかいた。
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| 2009年4月12日(日) |
| グアムの朝市 |
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四月にグアムを訪れたとき、心配していたバッテリー上がりは起こらなかった。エンジン音は弱々しかったが、一発で掛かった。まず窓を開け、エアコンも付けず、ドライブをする。バッテリーが元気になるまで長距離を走ってみる。マリンコープを北上し、アンダーセン基地の前を通過、9号線に入り、ゴルフコースを左折し3号線に乗り入れる。そのまま南下し、再びマリンコープに入りデデドに向かう。朝市はレンタカーか自家用でないと行くのに不便で、これまで経験が無かった。すでに多くの買い物客の車が駐車しており、テント張りの店舗もほとんどが営業している。車を外のフェンス沿いに停め、市場の中に入った。アロハやTシャツを売る店はパスし、地元野菜の屋台によって見た。少し色づいたカラマンシーと日焼けした小さいトマトを買う。カラマンシーはスダチの小さいものだが、酸味はスダチに負ける。トマトは沖縄で美味しかったフルーツトマトを期待したが、収穫遅れの黄ばんだトマトのようで、皮は硬く、水分が少ない。その他にオクラ、なすび、キュウリ等があった。でも前日ペイレスで買っていたので見送る。見慣れないものがあったので聞いてみたら、バナナの花と言う。料理法を聞くが、要領を得ない。飲み物や春巻きを売る屋台もあって、結構人が集まっている。以前マニラへ旅行したとき、水に懲りた私は、屋台の食い物は苦手だ。ローカルはここで買い物をするというより、仲間や家族とそぞろ歩きをするレクレーションの場という感じだ。朝市だから早朝五時ごろから始まるのだが、グアムの人たちは早起きだ。スクールバスも来るのが早い。団地のバス停では、早くから子供達が集まり、野犬と戯れる。野犬も心得たもので、追っかけっこや、野球の仲間になっている。バスが来て、小学生が乗り込むと、名残惜しそうにバスを見送る。ところが中学や高校生にはそうしない。犬も遊んでくれる相手を良く知っているようだ。
ところがこの野犬、ツーリストにとっては不安になる。いつも群れているので、見知らぬ人には吠えることもあるし、こちらが一人の時は、棒を持っていたほうが安心だ。子犬は朝市で売っていて、とても可愛らしい。大きくなると手放すのかどうか分からないが、首輪の無い犬が徘徊しているのは事実だ。
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| 2009年2月17日(火) |
| 車購入 |
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自動車免許を取ったら、とたんに車が欲しくなった。島を訪れた時だけレンタカーを借りるほうが安く済むはずだが、安い中古車ならどちらが得だろう。そんなことを考えながら、ネットでディーラーの中古車を検索する。グアムには大きなディーラーが数軒あるが、やはりトヨタや日産の車はローカルにも人気がある。当然中古車も高い。三軒目に訪れたディーラーのAKアトキンズはGPOから近いマリンドライブ沿いにあった。日本からメールを入れていたので、セールスウーマンが待ち受けていた。
予算は1万ドル以下が希望だったので、彼女はリストを手に取り、展示場を案内してくれた。四、五台チェックして、予算とつりあう車が見つかったので、試乗してみた。同乗した妻もハンドルを握ってみた。納得したのでこれに決定。シボレーオプトラ2007年型。事務所で契約書にサインし、その日は終わり。週明けに保険会社にセールスウーマンと出向き、日本の車検証に当たる強制保険の証書や、任意保険、盗難保険の証書も貰う。ディーラーの事務所に入り、小切手で決済すると、晴れて私達の車になった。税務局から新しいナンバープレートが届くには今回時間が掛かるらしい。理由は、ナンバープレートの絵柄が変わるからだ。現在はグアム島の絵だが、新しいものは花柄になっている。Kマート隣のスタンドで、ガスを満タンにする。
支払いはキャッシュカード。コンドミニアムに戻り、シュノーケルセットやフィンを積み込む。今までビーチにいくつどお荷物になっていた道具が便利に運べる。これだけでも自家用はありがたい。日本へ帰るとき、迷ったがバッテリーコードは繋いだままにしておいた。
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| 2009年2月10日(火) |
| グアム運転免許証 |
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日本とグアムを年に何度も、行ったり来たりしていると、現地の行動がショッピングバスだけではおぼつかなくなる。当然レンタカーのお世話になるわけだが、日本の運転免許証では30日以内。それ以上は現地の免許証が必要になってくる。
30日以上滞在することは無いので、別に現地の免許証は必要ないのだが、一念発起して、グアムの運転免許取得に挑戦してみた。まずパスポートと運転免許証を領事館へ持参する。そこで日本の運転免許証の抜粋証明書を発行してもらう。手数料19ドル。ポイントは運転暦が五年以上あること。そうしないとグアムの自動車学校へ入ることになる。領事館員は試験に受かったら、テンポラリーで一年間有効のグアム運転免許証が貰えると説明してくれる。なぜかと言うと、私のような旅行者は、米国の社会保険番号も納税者番号も持っていない。旅行者なら一年更新で構わないという考えなのだろう。そこでデナイアルレターを発行してもらわなければならない。まずマイクロネシアモール前の16号線を上り、グアム税務局へ行く。窓口で事情を説明し、レターの発行をお願いする。次にハーモンループ道路を戻り、社会保険協会へ行く。駐車場は満杯に近く、建物の入り口では守衛に、二時間は待たされると脅かされる。中に入ると、レター請求の件を書き込み、受付に渡す。周囲は乳児を抱えた若い夫婦や年寄りが多い。ここではグアムで生まれた赤ん坊にグリーンカードの発行手続きや、近くの島からの移民の受付をしている。我々も二時間以上待たされ、やっとレターが発行された。再び税務局に戻り、運転免許試験の申請書に書き込む。申請書と二通のレター、パスポート、日本の運転免許証、領事館発行の抜粋証明書をそろえて提出する。ここはいつも長蛇の列でかなり時間をとられる。受付は慣れていないのか、旅行者がグアムの運転免許を取得するのを理解しない。しきりに隣のベテランと思しきスタッフと相談している。納得したのか、日本語と英語のどちらで受験するのか質問して来た。当然日本語。費用は倍以上の35ドル。しかしここでは支払わない。来週の金曜日、AM11時からグアム大学で試験があると告げられる。何とか日本へ帰る前に受けられそうだ。
私が運転免許を取ったのは40年以上前だ。日本の交通法規も可なり変わっている。ましてグアムの法規がどんなものか、ネットで事前に調べておいたが不安はぬぐえない。
いよいよ当日、グアム大学へ一時間前に行く。二階で35ドルを支払い、受験票を受け取る。20分前に別棟に連れて行かれた。
スタッフがやたら多い。それもそのはず、このクラスの受験は日本、チャモロ、韓国、中国、タガログの各言葉で受ける。当然説明が五ヶ国語であった。さて試験開始。最初は易しかったが、徐々に変な日本語が出てきて解釈に戸惑う。日本人受験者も二、三名いたようで、言葉の説明を求める質問もあったが、要領を得ない。それでも時間いっぱい使い、何とか終わった。テストはマークシート形式で四択。四十問中、80%の32点が合格ライン。
結果は翌週の水曜日だと告げられる。しかしその前に帰国する。結果はネットで知らされた。合格者全員の名前と、点数が記されている。何とかぎりぎりでパス。翌月再びグアム往訪。税務局へ赴き、試験がパスしたことを伝えた。受験票を渡し確認後、日本とほとんど同じ眼の検査があった。隣のブースへ移り、写真を撮られ、サインをする。数分でラミネート製の真新しい免許証が渡される。この時、日本の免許証の裏に、グアムで使用を禁ずる文言を記入された。これで晴れて、免許証を手に入れる。パスポートを持ち歩かなくても、IDの代わりになるし、ローカルと同じように、ホテルの割引を受けられるらしい。
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